松前城の北側は非常時の外衛的役割の為、
寺を集中的に配置した寺町となっています。
江戸時代初期より周辺の寺が移設され、
当時は15の寺がありました。
しかし松前城攻防戦における戦火により、
その殆どが焼失してしまい、
後に移転した寺も数多く、
現在は5つの寺が残るのみとなっています。
「寺町」。
当時の寺町の道路は現在の半分ほどで、
あとの半分は堀であったという。
「法幢寺… 続きを読む
北海道松前郡 法幢寺/松前藩松前家墓所
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松前城の北側は非常時の外衛的役割の為、
寺を集中的に配置した寺町となっています。
江戸時代初期より周辺の寺が移設され、
当時は15の寺がありました。
しかし松前城攻防戦における戦火により、
その殆どが焼失してしまい、
後に移転した寺も数多く、
現在は5つの寺が残るのみとなっています。
「寺町」。
当時の寺町の道路は現在の半分ほどで、
あとの半分は堀であったという。
「法幢寺… 続きを読む
幕末の西尾藩藩主松平乗全の墓所は、
西尾市の盛巌寺にあります。
譜代藩主の墓所が所領にあるのは、
比較的稀なケースです。
「盛巌寺」。
創建は天正18年(1590)。
大給松平宗家6代当主松平家乗が、
祖父で4代当主の松平親乗と、… 続きを読む
幕末の偉大なる師といえば緒方洪庵。
私塾適塾からは多くの人材が輩出され、
明治維新の原動力となりました。
維新の原動力となった塾といえば、
吉田松陰の松下村塾が挙げられますが、
こちらは革命家を育てた塾であり、
技術者を育てた適塾とは違います。… 続きを読む
大聖寺藩前田家の菩提寺である実性院へ。
「実性院」。
大聖寺前田家の菩提寺で、
寺名の由来は初代前田利治の戒名
実性院殿機雲宗用大居士に因みます。
「前田家墓所」。
実性院の裏手にある大聖寺藩前田家の墓所。
大きな木々に囲まれた場所で、
初代から14代までの藩主と、
奥方や殉死した家臣の墓が並んでいます。… 続きを読む
女流勤皇詩人野村望東尼は、
福岡藩の尊攘派弾圧事件乙丑の獄により、
糸島に流刑となっていたところ、
高杉晋作の指示により奇兵隊に救出され、
下関の白石正一郎宅に匿われました。
晋作を看取った後は三田尻に滞在。
戦勝祈願のため断食を行ったのが祟り、
慶応3年11月に亡くなっています。… 続きを読む
中津隊隊長増田宋太郎の墓がある安全寺。
「安全寺」。
元々は闇無浜神社の宮寺で、
天台宗の涼雲寺という寺院でしたが、
細川家時代に曹洞宗に改められてました。
山門前に五輪墓が並んでおりますが、
誰の墓なのかよくわかりません。
「… 続きを読む