奇兵隊顕彰墓地にある白石正一郎の墓碑。
彼については何度も取り上げていますが、
竹崎の荷受問屋小倉屋の8代目。
熱心な神道信者であった白石は、
国学者鈴木重胤が下関立ち寄った際、
彼の教えを聞く機会を得ており、
弟子となって国学に傾倒したという。
家業についても精力的に取り組み、
多くの新規事業にも取り組んでいますが、
商敵からの妨害も多かったようです。… 続きを読む
「東行庵」タグアーカイブ
下関市吉田 東行庵/時山直八の墓
奇兵隊顕彰墓地にある時山直八の墓碑。
慶応4年5月13日。
奇兵隊参謀時山直八は二個中隊を率い、
奥羽越列藩同盟軍の陣地朝日山を攻撃。
しかし道案内が道を間違えた為に、
同盟軍陣地の真正面に出てしまい、
多くの犠牲者を出して後退しました。
時山は山麗で陣を立て直しますが、
運悪く敵の銃弾が顔面を捉えて即死。
混戦の為に首級… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/赤禰武人の墓
奇兵隊顕彰墓地にある赤禰武人の墓碑。
赤禰は奇兵隊の3代目の総督でしたが、
高杉晋作の功山寺挙兵に反対し、
これが成功した為に立場を失って出奔。
上方で捕らえられてしまいます。
赤禰は長州藩との仲立ち提案した為、
許されて永井尚志らと広島まで随行。
そこから長州へ侵入していますが、… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/谷梅処の墓
高杉晋作及び福田侠平の墓の一段低い位置に、
東行庵初代庵主谷梅処の墓があります。
「雪庵梅処尼首座」。
東行庵初代庵主谷梅処の無縫塔。
出自不明ながら芸者此の糸として裏町で働き、
晋作による見受け後はうのと呼ばれました。… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/高杉家の墓
高杉晋作と福田侠平の墓の間には、
10m程度の空間があり、
充分に奥方の墓が建てられますが、
晋作の妻雅子達の累代の墓は、
晋作の墓から離れて建っています。
「高杉家累代之墓」。
晋作の妻雅子、息子の東一、東一妻茂子、
東一長女暢子… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/福田侠平の墓
高杉晋作の墓の隣は妻雅子の墓ではなく、
奇兵隊軍監福田侠平の墓となっています。
これは福田の遺言に沿ったものですが、
隣とはいえ10m程離されました。
後に隣に奥方の墓が建てられるように、
わざわざ開けられたと推測しますが、
雅子らの累代墓は少し離れて建てられた為、
微妙に離れた晋作と福田の墓だけが、
広いスペースに並んでいます。
「福田公明墓」。
福田は長州藩士十川権右衛門… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/奇兵隊顕彰墓地
久しぶりの東行庵。
梅の花も開いて香っていました。
毎度晋作の墓にはお参りしていますが、
今回はそれ以外の墓について触れてみます。
「司馬遼太郎文学碑」。
何を思ってかゆきちゃんが腰掛けたので、
司馬遼太郎文学碑と共に一枚。
紀行文[街道を行く]の一節とのこと。… 続きを読む