田野浦は古くからの港町。
関門海峡の潮待ちの港として、
北前船の寄港が増加するようになると、
門司をも陵駕する繁栄を魅せたという。
門司区田野浦周辺。
埋め立てで海岸線は変わっており、
往時の集落は陸封されています。
「田野浦港」。
かつての浦は田野浦埠頭で覆われて、
河口のような船溜まりとなっています。… 続きを読む
「長府報国隊」タグアーカイブ
下関市後田町 戦場ヶ原公園
戦場ヶ原公園。
この殺伐とした名称の公園は、
一聞すると古戦場であろうと想像しますが、
別に古戦場だった訳ではありません。
幕末期には長府報国隊の教練場となり、
明治期以降は大規模な要塞となっていますので、
古戦場ではないにしろ戦争に関係ない訳でなく、
戦場ヶ原の名称が付けられてもおかしくない。
いつからそう呼ばれたのかは諸説がありますが、
幕末期には… 続きを読む
下関市椋野町 椋野陣屋跡
下関は幕末の重要な事件が多数発生しており、
※攘夷戦、功山寺挙兵、小倉戦争など。
幕末史跡の多い場所なのですが、
明治以降に大規模な下関要塞が建設された他、
空襲での破壊、戦後の発展などに伴い、
多くの遺構が失われています。
今回取り上げる椋野陣屋跡… 続きを読む
下関市長府 功山寺/長府藩家老三吉家墓所
長府藩家老三吉家は主席家老細川家に次ぎ、
吉見や庭田など1500石を領していました。
※長府藩家老家は他に、三澤家、伊扶家、桂家、
毛利玄蕃家、田代家、西家。
三吉氏は元々備後の国人でしたが、
戦国時代には尼子家や大内家に従属しており、… 続きを読む
下関市長府 功山寺/豊永長吉(印藤聿)墓所
豊永長吉は幕末期の坂本龍馬との交友から、
印藤聿としての名の方が知られています。
幕末を生き延びて明治に活躍した人物は、
明治以降の姓名で知られる訳ですが、
坂本龍馬ありきで語られる事が多い分、
幕末期の名前で呼ばれる事が多いようです。
※ここでも印藤聿に統一します。
彼の墓は功山寺墓地にあります。
「豊永長吉墓」。
所狭しと並ぶ功山寺墓地において、… 続きを読む
下関市長府 功山寺/泉十郎(野々村勘九郎)墓所
長府藩の尊攘派の首領格といえば泉十郎。
長府藩士荻野十郎左衛門の次男として生まれ、
同藩士野々村合左衛門次晋の養子となります。
※野々村家は130石馬廻格。
家督相続後の文久3年には藩奉行職を務め、
青年藩士らを集めて精兵隊を組織。
※福原和勝や… 続きを読む
大分県宇佐市 四日市代官所陣屋跡
豊前四日市は中津藩小笠原家領でしたが、
3代藩主小笠原長胤が悪政で改易に処され、
本家の小倉藩小笠原家預かりとなります。
没収された四日市周辺は天領となり、
四日市代官所が置かれてました。
後に天草代官の支配を経て、
西国筋郡代支配となりました。
「四日市陣屋跡… 続きを読む