石川県金沢市 大乘寺/加賀本多家墓所

加賀藩家臣の最高位の人持組頭8家は、
いずれも万石以上の禄高を有しており、
他藩でいう永代家老家にあたります。
この8家は加賀八家と呼ばれており、
本多家長家横山家前田土佐守家
前田対馬守家奥村宗家奥村内膳家
村井家と定められていました。
上記の8家のうち、
前田対馬守家以外の7家は、
野田山にあります。

最後に加賀本多家の墓所へ。
加賀本多家の墓所は野田山にありますが、
野田山墓地ではなく大乘寺境内の墓地。

大乘寺は永平寺3世徹通義介の開山。
その次世は総持寺開山の瑩山紹瑾です。

総門」。
寛文5年(1665)建立の薬医門
黒門とも呼ばれています。
大乘寺は現在地に元禄年間に移転しており、
この総門は以前の本多町にあったものを、
ここに移築したという。


山門」。
総門が黒門と呼ばれるように、
赤門と呼ばれる寛永年間建立の楼門
総門と同じく本多町からの移築で、
訪問時は改修中でしたが、
弁柄色が夕焼けを美しく浴びていました。


仏殿」。
元禄15年(1702)建立の禅宗様式の仏殿
法堂庫裏僧堂回廊で繋がっています。


法堂」。
仏殿の背後にある曹洞宗客殿型の法堂。
同じく元禄15年頃に建立されました。


加賀藩老本多家旧墓所」。
加賀本多家の墓所は大乘寺墓地に2ヶ所。
旧墓所は仏殿に近い位置にあり、
初代から6代までの当主及び、
正室、子女の墓か並んでいます。


回仙院殿大夢道中大居士」。
加賀本多家初代本多政重の墓。
譜代本多弥八郎家初代本多正信の次男で、
槍奉行倉橋長右衛門の養子でしたが、
故あって徳川秀忠の近習岡部庄八を斬り、
徳川家を出奔しました。
大谷吉継の家臣を経て宇喜田秀家に仕官し、
正木左兵衛と称し て2万石を拝領。
朝鮮出兵等で活躍していますが、
関ヶ原の戦いで宇喜多家は改易された為、
隠棲した後に福島家や前田家を経て、
直江兼続の婿養子となり直江勝吉と改名。
後に直江家から離れて本多政重を名乗り、
藤堂高虎の取り成しで前田家に復帰します。
※この際に直江家や上杉家の家臣が従い、
 上杉家の了承で政重家臣となっています。

譜代出身を活かして幕府との交渉に努め、
前田家の越中国返上を撤回させており、
この功で5万石の知行を拝領。
大坂冬の陣では真田信繁に翻弄されますが、
その後は加賀藩の家老として藩主を補佐し、
4代藩主前田綱紀の代まで使えています。

後期の本多家の墓所は少し離れた低い位置。

十二義士墓所」。
本多家新墓所の手前にある十二義士の墓所。
幕末の11代本多政均は尊攘派に暗殺され、
志半ばの32歳で死去しています。
暗殺に関わった尊攘派藩士7名のうち、
井口義平山辺沖太郎は切腹しますが、
残りの5名は切腹を免れました。
※そのうちの土谷茂助は逮捕前に自刃。
維新後に旧家臣15名は仇討を決意し、
岡野悌五郎菅野輔吉多賀堅三郎を殺害。
※残りの岡山茂は姿をくらましています。
彼らは政均の墓前に3人の首級を供え、
仇討の成功を報告した後に自首します。
そして実行犯の12人が切腹刑となり、
※見張役と暗殺に失敗した2人は禁固刑。
日本法制史上最後の切腹刑となりました。
後に本多新墓所の前に墓が建立され、
主を守る様に12名が眠っています。
残念ながら日が落ちかけていた為、
写真は暗くなってしまいました。


本多家新墓所」。
十二義士墓所の先にある新墓所。
7代から12代当主とその室、子女の墓、
及び永代墓があります。

幕末の当主は10代本多正通と、
11代本多政均。

10代当主本多政通の墓。
9代本多政和の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督と相続しました。
幕府から諸藩に海防強化の要請が出ると、
越中国の海岸を視察し砲台を建設しますが、
安政3年に病死しています。


11代当主本多政均の墓。
9代政和の次男として生まれますが、
兄政通の急死に伴い家督を相続。
藩主前田斉泰より重用されて、
西洋式軍制の導入などの改革を推進します。
藩内の尊攘派の暴走には厳しい態度で臨み、
禁門の変での世子前田慶寧の任務放棄では、
責任者の多くを処罰するなどしており、
藩内尊攘派から恨みを買いました。
そして明治2年に暗殺されました。


大観院殿悟聴松大居士」。
12代当主本多政以の墓。
11代政均の長男として生まれますが、
明治2年に父が殺害された為、
若干5歳で家督を相続しています。
廃藩後は石川県農工銀行頭取等を務め、
貴族院議員にもなっています。
大正10年、死去。

徳川家康の参謀として活躍した本多正信
その子で絶大な権勢を誇った本多正純
正純は釣天井事件で改易されてしまい、
嫡流は旗本安藤家に仕官して続き、
支流は旗本3000石となっていますが、
大名家へ返り咲く事はありませんでした。
また正信三男本多忠純も大名でしたが、
3代で無嫡断絶となっています。
この為に弥八郎家で隆盛した家は、
政重の加賀本多家のみとなっています。

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