関ヶ原の戦いで島津義弘率いる島津勢は、
敵軍の中央を突破する事を決意し、
捨て奸の戦法を用いて戦戦を離脱しました。
しかし約300名程残っていた兵数は、
最終的に義弘以下80余まで減ったとされ、
総大将の義弘を逃がす為に、
将兵は死ぬまで戦ったとされます。
義弘の甥である島津豊久も殿軍を務め、
自らも踏み留まって奮戦。
瀕死の重傷を負いながらも義弘を追い、… 続きを読む
岐阜県大垣市 島津豊久墓所
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関ヶ原の戦いで島津義弘率いる島津勢は、
敵軍の中央を突破する事を決意し、
捨て奸の戦法を用いて戦戦を離脱しました。
しかし約300名程残っていた兵数は、
最終的に義弘以下80余まで減ったとされ、
総大将の義弘を逃がす為に、
将兵は死ぬまで戦ったとされます。
義弘の甥である島津豊久も殿軍を務め、
自らも踏み留まって奮戦。
瀕死の重傷を負いながらも義弘を追い、… 続きを読む
富田は桑名宿と四日市の間にある間宿。
名物の焼き蛤を売る店が軒を連ね、
香ばしい焼き蛤の香りが漂っていたようで、
全国的に有名であったようです。
「歌川広重 東海道五十三次 富田立場之図」。… 続きを読む
土山宿は東海道の49番目の宿場町。
難所である鈴鹿峠を控える宿場で、
峠越えに向かう旅人が英気を養い、
峠を越えて来た旅人が疲れを癒しました。
「歌川広重 東海道五十三次 圡山」。
土砂降りの雨の中を進む大名行列。
土山町南土山周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが土山宿跡。
西側より散策。… 続きを読む
藤堂高虎の異母弟藤堂高清は、
上野城代を務めて寛永17年(1640)に死去。
上野の長者屋敷に葬られたとされます。
その墓所は昭和19年(1944)に海軍に接収され、
伊賀海軍航空基地の建設に伴い、
西側の神道墓地に移転したとのこと。
「月山藤堂問碣」。… 続きを読む
藤堂高清は藤堂高虎の異母弟で、
一門藤堂出雲家の家祖。
初陣の大坂冬の陣で奮戦し、
真田丸での戦闘で負傷しています。
翌年の夏の陣では名張城代を命じられ、
出陣を許されませんでしたが、
無断で弟の藤堂正高… 続きを読む