請西藩は藩主自ら脱藩して新政府に抵抗し、
戊辰戦争で唯一改易となった藩。
藩主林忠崇の行動で新政府の怒りを買い、
改易という重い処分が下されていますが
藩主が国許から離れて抵抗した例は、
桑名藩、備中松山藩等数例あり、
これらは改易処分となっていません。… 続きを読む
千葉県木更津市 真武根陣屋跡
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請西藩は藩主自ら脱藩して新政府に抵抗し、
戊辰戦争で唯一改易となった藩。
藩主林忠崇の行動で新政府の怒りを買い、
改易という重い処分が下されていますが
藩主が国許から離れて抵抗した例は、
桑名藩、備中松山藩等数例あり、
これらは改易処分となっていません。… 続きを読む
真勝寺にある久留里藩士杉木良太郎の墓。
「勇猛院須覺良悟信士」。
久留里藩士杉木良太郎の墓。
福田八郎左衛門が率いる撤兵隊は、
慶応4年4月に江戸を脱出し、
久留里北側の真里谷に駐屯していました。
久留里藩では彼らの要請に応じ、
藩兵の派遣を準備していましたが、
新政府軍… 続きを読む
久留里藩黒田家は福岡藩黒田家とは別系で、
三河国八名郡黒田郷を本拠とした一族。
戦国末期の当主大橘定綱を祖とし、
子の大橋広綱が黒田姓に改称したという。
広綱の子黒田久綱は駿河今川家に属し、
久綱の子… 続きを読む
大多喜城は大多喜藩の藩庁。
大永元年(1521)に真里谷信清が築城し、
小田喜城と称したことに始まります。
信清の次代真里谷朝信は、
里見家家臣正木時茂によって攻められ、
小田喜城を奪われており、
以後は正木信茂、… 続きを読む
大多喜町に本多忠勝の墓があります。
本多忠勝は本多平八郎宗家の初代当主で、
大多喜藩の初代藩主。
その子孫は岡崎藩の藩主家となっており、
忠勝より16代続き藩藩置県を迎えました。
忠勝は徳川四天王として徳川家康に仕え、
生涯で57回の戦に参加しましたが、… 続きを読む
一宮陣屋跡にある振武館の裏側より、
最後の藩主加納久宜の墓所へ行けます。
「前一宮町長 貴族院議員
従二位勲二等 子爵加納久宜公墓」。
一宮藩4代藩主(8代当主)加納久宜の墓。
久宜は三池(下手渡)藩立花家の出身で、
6代立花種周… 続きを読む
一宮藩は文政9年(1826)に伊勢国の八田藩が、
上総国の飛地である一宮に陣屋を移し、
一宮藩として成立させた譜代藩。
藩主家の加納家は紀州藩の家臣でしたが、
徳川吉宗が8代… 続きを読む