文久3年8月18日、
八月十八日の政変が発生。
大和行幸延期、急進派公家15人の禁足及び、
長州藩を堺町門の警備の任から解き、
京都からの退去が勧告されます。
失脚した公家15人のうち、
三条実美ら七人の公卿(七卿)は、
※七卿は三条実美の他に、… 続きを読む
七卿落ち
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文久3年8月18日、
八月十八日の政変が発生。
大和行幸延期、急進派公家15人の禁足及び、
長州藩を堺町門の警備の任から解き、
京都からの退去が勧告されます。
失脚した公家15人のうち、
三条実美ら七人の公卿(七卿)は、
※七卿は三条実美の他に、… 続きを読む
慶応2年8月1日。
長州藩との戦いで不利となった小倉藩は、
小倉城を自焼させ香春に撤退しました。
家老島村志津摩は藩兵を再編し、
金辺峠と狸山に防衛拠点を置いて、
勢いに乗る長州藩兵を迎撃。
金辺峠は総司令官である島村が守り、
狸山には同じく家老の小宮民部… 続きを読む
桂昌寺の阿武町惣郷にある曹洞宗寺院。
寺伝によれば惣郷村の知行主兒玉廣恒が、
父兒玉元恒の菩提を弔う為に創建し、
元恒の法号より桂昌寺としたという。
「桂昌寺」。
神宮山北麓の寺尾にあり、
寄組兒玉家の知行地惣郷を臨みます。
ここに兒玉家墓所かあるということで、… 続きを読む
大薀寺は須佐益田家の菩提寺。
須佐に入封した20代当主益田元祥は、
父の益田藤兼の菩提を弔う為に、
弥富村にあった妙悟寺を移転し、
現在地に大薀寺を建立しました。
以降は須佐益田家の菩提寺となり、
初代から33代までの位牌が安置され、
現在に至っています。… 続きを読む
益田家墓所は須佐湾を臨む高台にありますが、
25~26代当主の墓所は、
須佐市街の紹孝寺に建立されています。
「紹孝寺」。
建仁年間(1201-1204)に創建された寺院で、
始めは延命寺を称した天台宗の道場でした。
その後の天正年間(1573-1592)には、
禅宗の寺に改宗されて… 続きを読む
文久3年の生野の変に敗れた澤宣嘉は、
田岡俊三郎、森源蔵、高橋甲太郎と脱出。
追手から逃れる為に讃岐や伊予に潜伏し、
その後に長州に渡りました。
長州では阿武郡… 続きを読む