禁門の変」タグアーカイブ

京都府京都市 樫原宿跡

樫原宿山陰街道の最初の宿場町。
物集女街道の結節点でもあり、
京都に入る直前の宿場町として、
商いを中心に大いに繁栄し、
京町家の意匠を持つ家々が立ち並び、
美しい町並みを創っていたという。


西京区樫原周辺。緑の線が山陰街道で、
青い線が物集女街道
青でぼかした辺りが樫原宿跡。


勤王家殉難之地」。… 続きを読む

山口県長門市 大寧寺墓地/益田家墓所

石見益田家の菩提寺のひとつ妙義寺は、
13代益田秀兼大寧寺木叟和尚を招き、
開山させたとされています。
この事から益田家は大寧寺と深く結びつき、
焼失した山門を再建するなど、
大寧寺を篤く信仰していたようです。

大寧寺墓地にある益田家の分骨墓。… 続きを読む

石川県金沢市 妙慶寺/松平大弐墓所

松平大弐家松平康定を初代とし、
始め柴田勝家に仕えていましたが、
柴田家が滅ぶと前田利家佐々成政に仕え、
最終的に前田家の重臣に戻って、
一時は万石を領す程であった家系。
江戸時代には人持組4千石となって続き、
家老職を務める事もありました。

幕末続きを読む

滋賀県高島市 正行院/松平大弐灰塚

禁門の変の前夜、在京の加賀藩世嗣前田慶寧は、
家臣らを集めて今後の方針を議論しました。
激論の末に3つの意見に別れ、
1つ目は、尊攘派による長州藩同調論。
2つ目は、佐幕派による長州藩排除論。
3つ目は、中立を保って自立割拠論。

最終的には「御周旋は充分行届あれば、
自今御守衛を専一するを可とせり

という年寄奥村栄通の意見が採用されて、
翌朝未明に慶寧は宮中警護続きを読む

山口県萩市 東光寺/四大夫十一烈士墓所

東光寺大雄宝殿裏側奥は毛利家墓所で、
その手前には四家老の墓所と、
元治甲子殉難烈士の墓所があります。
彼らは元治元年の第一次長州征伐の際に、
藩内で主導権を握った俗論党により、
切腹したり斬首された藩士達でした。
これらは杉孫七郎続きを読む