引接寺にあった本陣伊藤家の墓所に、
伊藤助太夫(九三)の墓が無かったので、
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調べると墓所は空月庵跡とありました。
ネットでは引接寺だと書かれていたり、
空月庵だと書かれていたりでしたが、
引接寺には無いのを確認しましたので、
空月庵の方が正解であろうと、
ネットで住所を検索してみますが、
「下関市本町1丁目」
「… 続きを読む
天誅組の変で敗れた中山忠光は、
天誅組の生き残りと共に長州に逃れ、
長州藩は忠光を長府藩へ預け保護させます。
忠光は公儀のお尋ね者であった為、
隠密に悟らさずに潜伏させる必要があり、
そこで選ばれた潜伏地が延行村でした。
延行は現在も使用されている地名ですが、
地元民もあまり知らない場所で、
民家の少ない田園地帯。
幹線道路も走っていません。
下関北運動公園の裏手(南側)あたりに、
中山忠光が最初に潜伏した場所があります。… 続きを読む
引接寺にある伊藤家と入江和作の墓所。
両名の墓を散々探し回ってみましたが、
広い墓地を探し出す事は不可能。
そこで引接寺のご住職に聞いてみると、
親切に場所まで案内してくれました。
本堂の左裏手にあります。
「本陣伊藤家墓所」。
住職に教えてもらったのは場所のみ。
どれが九三の墓かわからないとのことで、
墓石の文字を確認してみましたが、
伊藤九三(助太夫)盛正の墓は無い。… 続きを読む
引接寺は小早川隆景の菩提寺。
朝鮮通信使の宿所としても使われ、
日清戦争後の日清講和会議では、
李鴻章らの宿所になっています。
「引接寺」。
幕末には長府報国隊の屯所になっており、
長府毛利家の菩提寺と同等の寺格でした。… 続きを読む
豊功神社は歴代長府藩主を祀る神社。
古くから龍神の祠と櫛崎八幡宮がありましたが、
初代藩主毛利秀元が城を構えるにあたり、
毛利の守護神宮崎八幡宮を安芸国より勧請し、
宮崎八幡宮と称して神社を創建して、
後に松崎八幡宮と改称しました。
また忌宮神社の境内社に… 続きを読む
長門国厳島神社は名前からもわかるように、
広島の厳島神社と同様に宗像三神を祀る神社。
安徳天皇御座船に乗っていたとされる御分霊を、
壇ノ浦の戦いの後に地元民が偶然見つけて、
祠を建てて祀ったのが始まりとされ、
後に広島の厳島神社より勧請しています。
「一の鳥居」。
マンションに鳥居が食い込んでるのが面白い。
この土地の地主がマンションを建てる際、
鳥居をどうするか考えた挙句、
こうすることになったのでしょう。
鳥居の撤去のような罰当たりなことは出来ず、… 続きを読む
「萩藩新地会所」の説明板の横に、
「高杉東行療養の地 220m」とあります。
案内に従って細道を進んでみます。
こういう案内は結構迷ったりしますが、
意外に上手な案内がされていました。
あれ?どっちだろう?と思うだろう場所に、
案内板があると非常に助かります。
高架や階段がありますので、
車ではこちらからは行けません。
そして到着。
「高杉東行療養之地」。
小倉戦争の最中に労咳を悪化させた… 続きを読む