高杉晋作は功山寺で挙兵した後、
藩の出先機関である新地会所を襲いました。
その新地会所の跡碑と説明板が、
厳島神社の鳥居の横に設置されています。
「萩藩新地会所址」。
神社の脇にある小さな石標と説明板からは、
その規模がイメージしづらいのですが、
碑のある場所を南東の角として、
下関上新地郵便局や… 続きを読む
高杉晋作は功山寺で挙兵した後、
藩の出先機関である新地会所を襲いました。
その新地会所の跡碑と説明板が、
厳島神社の鳥居の横に設置されています。
「萩藩新地会所址」。
神社の脇にある小さな石標と説明板からは、
その規模がイメージしづらいのですが、
碑のある場所を南東の角として、
下関上新地郵便局や… 続きを読む
高杉東行終焉之地の向かいの妙蓮寺に、
中島名左衛門の墓があります。
妙蓮寺は攘夷戦の際、
長州藩兵の宿舎となっていた場所でした。
「妙蓮寺」。
寺には高杉東行終焉之地にある東の門と、
駐車場のある南側の門があります。
中島名左衛門は長崎出身の砲術家で、
高島流砲術… 続きを読む
櫛崎城は一国一城令により、
長府藩が城を破棄する前の居城。
城が取り壊された跡の三ノ丸跡に、
陣屋を建設して長府陣屋としました。
幕末には本丸跡に砲台が建設され、
東から来る外国船をいち早く見つけ、
これを知らせる役目も果たしました。
幕末時の櫛崎城付近。
城跡であるため砲台が設置しやすく、
真鍮砲3門… 続きを読む
慶応元年。長州内訌戦に勝利した奇兵隊は、
来たるべき幕府との戦いに備えて、
下関への転陣命令が出されます。
当初、長府に転陣する予定でしたが、
「差し支える事」があり、
吉田郷に転陣する事となりました。
この「差し支える事」とは、
「馬関開港論」によって、
長州藩と長府藩との間に溝ができた時期で、
長府に駐屯できる状態ではなかったという。
後に開港論はうやむやになり、… 続きを読む
長府の城下町のはずれにある覚苑寺は、
長府毛利家の3つある菩提寺のひとつ。
※他は功山寺、笑山寺。
下関攘夷戦の本陣はここに置かれました。
「覚苑寺山門」。
覚苑寺は長府藩3代藩主毛利綱元… 続きを読む
忌宮神社は長府にある長門国二宮。
由緒としては一宮レベルなのですが、
長門国には住吉神社がありますので、
一宮の座を譲ってはいますが、
長門では住吉神社と同格とみなされました。
境内は仲哀天皇の行宮豊浦宮の跡地であり、
足利尊氏の戦勝祈願でも知られます。
「… 続きを読む
「長府藩侍屋敷長屋」は、
長府藩御馬廻役西家(220石)の表門に付属していたもので、
現在の位置より500mほど南にあったものを移築したものです。
500mといえば長府松原町あたりですね。
壇具川沿いの観光的には見学しやすい位置に、移築されています。
表門に付属していたという事ですが、220石の馬廻役にしては、
かなり大きな邸宅だったんじゃないでしょうか?
220石といえば、長州藩の高杉家クラスです。
萩の高杉家旧邸は今の広さの3倍だったとはいえ、
こんな長屋が入るには小さすぎる気がします。
中は休憩スペースになっています。
柱・梁・小屋組などは当初の材料を残しているそうで、
特に共待ちとして使われた四畳。八畳の間や土間は原型を留めており、… 続きを読む