慶応3年に高杉晋作は死去しますが、
その遺骸は遺言により吉田に葬られます。
危篤に際して妾のおうのは遠ざけられ、
臨終や葬儀にも立ち会ってはおらず、
路頭に迷っていたとされていますが、
これを知った山形有朋や伊藤博文は、
おうのを出家させて墓守となる様指示。
山縣の草庵… 続きを読む
下関市吉田 東行庵/東行庵主の墓
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慶応3年に高杉晋作は死去しますが、
その遺骸は遺言により吉田に葬られます。
危篤に際して妾のおうのは遠ざけられ、
臨終や葬儀にも立ち会ってはおらず、
路頭に迷っていたとされていますが、
これを知った山形有朋や伊藤博文は、
おうのを出家させて墓守となる様指示。
山縣の草庵… 続きを読む
高杉家の菩提寺は萩の亨徳寺で、
明治期にその累代墓が建立されましたが、
平成4年に東行庵に移されました。
「高杉家祖先歴代墓」。
高杉家のルーツは安芸武田家とされ、
武田元繁が祖とされますが、
これについては諸説あるようです。
元繁の子とされる… 続きを読む
神埼市役所前交差点の南西側に、
蘭医伊東玄朴の胸像が建てられています。
「蘭醫 伊東玄朴先生之像」。
昭和46年に伊東玄朴史跡顕彰会により、
この場所に建立された胸像。
伊東玄朴は鳴滝塾でシーボルトに学び、
佐賀藩内で… 続きを読む
神埼宿は長崎街道の10番目の宿場町。
櫛田宮の門前町でもあったようで、
非常に賑やかな宿場であったとされます。
神埼市神埼町周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが神崎宿跡。
「西木戸口跡」。
神埼宿の木戸は少し変わっていたようで、
通常の木戸は横に開く門ですが、
戸板を突き上げて縦に開いていた… 続きを読む
今町は長崎街道沿いにあった家並みで、
周辺は対馬藩の飛地領であり、
街道の東側は奈良田村に属し、
西側は柚比村に属していたようです。
この家並みは約30戸程であったとのこと。
道沿いには豆腐屋、竹細工屋… 続きを読む
嘉瀬川は古来より灌漑利用された河川で、
江戸時代には佐賀藩の治水工事が度々行われ、
筑紫平野の穀倉地帯の水利を担いました。
しかし同時に水害も多く発生しており、
現在も根本解決に至っていないという。
「嘉瀬川ダム… 続きを読む
原田宿より田代宿へ向かう際、
最初の難所となっていた三国坂。
筑前、筑後、肥前の三国の境で、
争いの絶えなかった場所でした。
この為に当事者間で協議が行われ、
三国の境には国境石を建立。
長崎街道をゆく人々が、… 続きを読む