つづき。
万延元年4月16日から19日。
故有って船は停泊。
上陸して伊藤静斎を訪ねる。
伊藤静斎は元長州藩出身で、
南部の賊民蜂起の際、
18歳の静斎は県令某の為に、
賊民数十人を斬り、
その後に伊藤家の養子となった人物。
伊藤家は馬関の有力者であり役人でもある。… 続きを読む
「高杉晋作」タグアーカイブ
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高杉晋作の東帆禄①
高杉晋作の主治医石田静逸
慶応3年4月14日。
高杉晋作は療養空しく短い生涯を閉じました。
長州藩はこの若き英雄をなんとか治そうと、
名医で聞こえた李家文厚や竹田祐伯を送り、
寄組国司家も抱医の熊野祥甫を派遣。
特に竹田祐伯は三条実美附の医師でしたが、
木戸準一郎(孝允)がわざわざ… 続きを読む
京都府京都市 霊山護國神社②
「マイ・ディア・シンサク」今江祥智
4月14日 東行庵
今年の高杉晋作の命日は日曜日。
東行庵では恒例の[東行忌]が行われ、
終焉の地でも顕彰碑前祭が行われました。
たぶん相当の人でしょうから、
幼子2人を連れて行くのも微妙なんで、
昼から東行庵に手を合わせに行きました。
すっかり人が掃けて静かな東行庵。
子供達も手を合わせました。
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高杉晋作の150回忌の供養祭の様子。
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奇兵隊の吉田転陣
下関市吉田には高杉晋作墓所の東行庵があり、
また奇兵隊陣屋跡もあります。
奇兵隊は結成以来各地に転陣していますが、
内訌戦で奇兵隊ら諸隊が勝利した後、
吉田に本陣を移すことになりました。
これには影響力を強める奇兵隊の発言力を、
中央から遠ざける為であったとされます。… 続きを読む