7月14日。
午前10時頃に支度をして焼物を見に行く。
それから知恩寺を見物。
入浴後に祇園牛頭天王の大宮に参拝。
近くの茶屋で食事を取ろうとするが、
盆だというので断られた。
仕方なく四条大橋を渡り先斗町の松寿司で、
昼飯と一盃。
三条通りを通って午後4時頃に宿へ帰る。
※祇園牛頭天王の大宮は現在の八坂神社。
神道信者白石にお盆は関係ないようです。
7月15日。
下男の由五郎が奈良から送っていた荷物と、
大坂の綿屋長兵衛に預けた20両、
それと練ようかんを持って帰ってきた。
御所の灯籠を拝見しようと思ったが、
なにかの都合で拝見できず。残念。
妻と由五郎を連れて興膳老人に合いに行く。
土産として干し鱈を一括り持参していたが、
あいにく老人は留守だったが、
老人の息子五六郎に酒食をご馳走になった。
五六郎と連れだって清水寺に向かう。
その途中で妻と由五郎は宿へ帰る。
四条の方に行って藤屋という店で一盃。
夜は売物見物して宿に帰る。
※興膳老人は白石と旧知のようで、
京都滞在中は何度も世話になっています。
京都一の名所である清水寺の感想は無し。
7月16日。
昼前に興膳老人宅へ行き、
老人と会って妻も引き合わせる。
折から桑原源吉という儒者と酒宴の最中で、
参加してご馳走になっているところに、
金斎という医者が来て大酒宴となる。
興膳老人と五条の古物屋角菱屋に行き、
縞の古手を色々と見たが意外に高く、
買わずに新しい縮緬を一枚買った。
そのあと東本願寺、西本願寺を見物し、
四条河原の生吉という店で一盃。
大文字の送り火が見えた。
※白石は相当の飲んべえですね。
でも財布の紐は堅いようです。
7月17日。
興膳老人へ借家について手紙をことづけた。
花山院家の家臣和田清記という人物に、
八羽老人に頼まれた播磨風土記を訊ねる。
一両日中に調べて返事するとの事。
興膳五六郎と御所の表門を拝見し、
瓢亭という茶屋で一盃した後で宿に帰る。
借家の件を下男に聞きに行かせると、
物件があったようでいつでも入れるという。
早速、興膳老人にお礼に行く。
※播磨風土記は播磨国の風土記。
京都に本格的に長期滞在するため、
借家を借りるつもりのようです。
7月18日。
大坂の綿屋長兵衛の手代が立ち寄り、
由五郎に渡した20両の確認に来た。
手代に綿屋と尼崎屋太七に手紙を託ける。
木屋町二条下ルの近江屋利助の借家に引越。
通称ひようたん路地という。
興膳老人が来て何かと世話を焼いてくれた。
昼過ぎから家移りのお神酒を出して酒宴。
興膳老人は夜に帰る。
由五郎を大坂へ荷物を取りに行かせる。
※木屋町二条下ルは下の地図の位置。
偶然ですが近隣に久坂玄瑞、吉田稔麿、
桂小五郎、山縣有朋、大村益次郎と、
長州志士の史跡が点在しています。
通称ひょうたん路地と言ってますが、
本間精一郎暗殺現場もひょうたん路地。
ここよりかなり南側です。
ひょうたん路地と呼ばれる場所は、
意外に沢山あったのかも?
7月19日。
寿司を食おうと四条錦で魚を買いに行くが、
早すぎたのか魚市が無く、
探して若狭小鯛の塩もの4尾買う。
椎茸、胡麻、牛蒡、茗荷も買って帰る。
興膳老人と五六郎、書生一人を招いて酒宴。
正午頃、小さな地震があった。
※この日の地震は記録されていないので、
本当に小さな地震だったのでしょう。
7月20日。
由五郎が大坂より戻る。
下関から送られていた衣類も持ち帰った。
大坂の荷物は手紙数枚と書物の注文状、
弟の大庭伝七よりの茶碗。
昼過ぎ、興膳老人と京都御所、鴨明神、
赤山大明神、銀閣寺を見物する。
生亀という店で一盃。
同心風の男に喧嘩を売られ興膳老人は立腹。
老人を家に送り五六郎と書生の良助と共に、
女太夫の浄瑠璃を聞きに行き、
夜遅くに帰った。
※鴨明神は下鴨神社。
赤山大明神は赤山禅院。
ちなみに子息の興膳五六郎ですが、
長府藩にも同姓同名な人物がいます。
彼は興膳昌蔵の弟で兄の仇討をした人物。
(記事はこちら)。
たぶん別人だと思うのですが・・。
つづく。
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