長距離移動といえば現在は自動車か、
はたまた電車や飛行機、
フェリーや高速バスなど色々あります。
江戸時代でいえば馬が自動車の代わりで、
電車や飛行機の代わりは船でしょうね。
現在の防府市… 続きを読む
長距離移動といえば現在は自動車か、
はたまた電車や飛行機、
フェリーや高速バスなど色々あります。
江戸時代でいえば馬が自動車の代わりで、
電車や飛行機の代わりは船でしょうね。
現在の防府市… 続きを読む
大道‐秋保間の県道25号線の側道に、
大楽源太郎の墓所への入り口があります。
「大楽源太郎先生墓所入口」。
これ行けるの?というような入口。
奥もけもの道のようになっていますが、
迷わずにたどり着けます。
少し行くと3つの墓石が現れました。
そのひとつが大楽源太郎の墓です。… 続きを読む
慶応2年。
大楽源太郎は大道の上り熊という場所に、
西山塾(西山書屋)という私塾を開設します。
高杉晋作の功山寺挙兵により、
長州は内訌戦に移行。
大楽も忠憤隊を組織して参戦しました。
この内訌戦の末に正義派政権が誕生し、… 続きを読む
大楽源太郎の関連史跡を巡りましたが、
当日は残念ながら雨が降っていました。
大楽は神代直人の師だった事もあり、
狂信的な変骨攘夷親父のイメージでしたが、
吉田松陰より2歳下で、
桂小五郎より1歳上と意外と若い。
※松蔭より4歳下、桂より1歳下の説も。
久坂玄瑞ら松蔭門下や、
赤禰武人とも交友しており、
禁門の変や… 続きを読む
三田尻が幕府によって攻め落とされた場合、
萩往還を上って山口は目と鼻の先となります。
もちろん三田尻は軍港ですので、
何が何でも死守せねばならない拠点ですが、
それだけに狙われる可能性がありました。
そこで防府と山口の境に砲台を設置し、
防御の勝坂砲台が建設されます。
防府市下右田周辺(勝坂砲台跡の場所)
三田尻から山口に侵攻する為には、
右田ヶ岳… 続きを読む
維新後に公爵となっていた毛利宗家当主毛利元昭は、
本拠を山口県に定めて邸宅を建てます。
父毛利元徳が定めた家範、
「公爵毛利家の本拠は、
山口の土地健康にして且つ交通便利の地にする事」により、
東京ではなく山口県に建てられました。
現在、その毛利邸は毛利博物館及び庭園として、
国指定の名勝となっています。
「毛利邸表門… 続きを読む