長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
徳地宰判勘場は佐波郡北部21ヶ村を支配し、
敷地は3反(900坪)あったとされます。
「徳地宰判勘場跡」。
徳地宰判勘場跡は梅畑… 続きを読む
山口県山口市 徳地宰判勘場跡
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長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
徳地宰判勘場は佐波郡北部21ヶ村を支配し、
敷地は3反(900坪)あったとされます。
「徳地宰判勘場跡」。
徳地宰判勘場跡は梅畑… 続きを読む
元治元年に禁門の変で長州藩は敗れ、
幕府による第一次長州征伐が開始。
これを受けて長州藩では俗論派が台頭し、
幕府への謝罪恭順が模索されます。
奇兵隊及び膺懲隊では幕府を迎撃すべく、
三田尻… 続きを読む
上田鳳陽は長州藩の儒学者で、
現在の山口大学の建学の祖とされる人物。
7代藩主毛利重就から13代毛利敬親まで、
鳳陽は7人の藩主に仕えており、
嘉永6年に85歳で死去しています。
山口大学の淵源は鳳陽開設の山口講堂とされ、
命日には… 続きを読む
興隆寺は推古天皇の時代(593-628)に、
百済より渡来した琳聖太子が建立した寺院。
琳聖太子は百済の王族(聖明王第3王子)で、
周防大内氏の祖とされています。
※諸説あり。
大内氏が隆盛する頃には同様に栄え、
氷上山全域に僧房や堂宇が建ち並びますが、
大内氏滅亡後に毛利家の庇護を得るも、… 続きを読む
大内氏館は大内家9代当主大内弘世以降、
山口を本拠とした際に建設され、
代々大内家当主が居住しており、
毛利家の山口侵攻まで使用された居館。
弘世は京都に模して山口の街並みを創り、
その居館を将軍邸宅を模して建設しました。
「… 続きを読む
高嶺城は戦国時代に築城された山城。
大内氏が山口を本拠とした際に、
京都を模した山口の街並みを構築しますが、
この為に要塞的な城は築かれず、
街の中心に居館が建てられていました。
大内氏は最盛期には中国… 続きを読む
新下関駅北東側にある普賢寺の納骨堂前に、
乃美大方の墓があります。
毛利元就の継室(又は側室)だった女性で、
元就の正室であった妙玖の死後に嫁ぎ、
穂井田元清(長府毛利家の祖)、
天野元政… 続きを読む