阿弥陀寺町の姉妹都市ひろばという場所に、
与次兵衛ヶ瀬の碑があります。
「与次兵衛ヶ瀬の碑」。
関門海峡は狭い場所で約650m程、
そこに1日約510隻の船が行き交い、
多くの船舶が通行していますが、
やはり現在も海運の難所でとのこと。
現在は浅瀬の除去、信号やブイの設置、
浚渫工事等で安全が保たれていますが、
昔はもっと危険な海峡でした。
その最大の難所が与次兵衛ヶ瀬… 続きを読む
下関市阿弥陀寺町 与次兵衛ヶ瀬の碑
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阿弥陀寺町の姉妹都市ひろばという場所に、
与次兵衛ヶ瀬の碑があります。
「与次兵衛ヶ瀬の碑」。
関門海峡は狭い場所で約650m程、
そこに1日約510隻の船が行き交い、
多くの船舶が通行していますが、
やはり現在も海運の難所でとのこと。
現在は浅瀬の除去、信号やブイの設置、
浚渫工事等で安全が保たれていますが、
昔はもっと危険な海峡でした。
その最大の難所が与次兵衛ヶ瀬… 続きを読む
フィリップ フランツ フォン シーボルトは、
ドイツ人の医師で植物学者。
オランダの軍医となり東インドに派遣され、
日本研究を希望して出島の商館医となると、
そこで優れた技術を認められて、
特別に出島の外での診察を許されます。
また鳴滝… 続きを読む
晧臺寺は寺町通りにある曹洞宗のお寺で、
長崎三大寺に指定される大寺院。
「皓臺寺」。
訪問時は開創400年記念事業として、
諸堂の再建工事が行われており、
残念ながら見学エリアは限られていました。
長崎最古という仁王門… 続きを読む
天正19年(1591)に葡国人船長の寄附により、
長崎に日本初のハンセン病病院が建設。
聖ラザロ病院と名付けられ、
聖ジョアン・バウチスタ教会が併設ましたが、
徳川幕府の禁教令によってこれらは破却され、
その跡地に日恵が本蓮寺を創建します。
日恵は加藤清正より拝領した兜をかぶり、… 続きを読む
今更ながら本陣伊藤家の記事。
伊藤家は鎌倉時代よりの名家の家柄で、
室町時代、江戸時代には町の大年寄を務め、
町代官も務める指導的立場であったという。
参勤交代で訪れる諸大名の本陣も務め、
※伊藤家は東本陣で、… 続きを読む
河井継之助は塵壺の中で、
「曽祢之天神を拝し松を見る」
と記しており、
曽根天満宮を参拝したようです。
「曽祢天満宮」。
菅原道真が大宰府へ向かう道中に、
伊保の湊から上陸して松… 続きを読む