長崎湊は元亀2年(1571)に開港され、
ポルトガル船との交易が行われました。
キリシタン大名であった大村純忠が、
イエズス会に長崎湊を彼らに寄進した為、
長崎はイエズス会領となり、
寒村に過ぎなかった長崎は要塞化。
各地で迫害されたキリシタンが集まり、
他教の寺院を破壊する等した為に、… 続きを読む
長崎県長崎市 長崎湊
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長崎湊は元亀2年(1571)に開港され、
ポルトガル船との交易が行われました。
キリシタン大名であった大村純忠が、
イエズス会に長崎湊を彼らに寄進した為、
長崎はイエズス会領となり、
寒村に過ぎなかった長崎は要塞化。
各地で迫害されたキリシタンが集まり、
他教の寺院を破壊する等した為に、… 続きを読む
川尻は薩摩街道の宿場町であり、
また熊本藩の重要な川港でした。
熊本市南区川尻周辺。
緑の線が薩摩街道で、
青くぼかした辺りが川尻宿跡。
「川尻宿跡」。
川尻宿の街道筋は県道50号線沿い。
元は国道3号線… 続きを読む
博多津は那ノ津とも呼ばれ、
三重県津市の安濃津、
大阪府堺市の堺津と共に、
日本最古の海法である廻船式目において、
三津に数えられた海の要所。
※三津七浦として知られる。
大陸から近かった事から、… 続きを読む
伊万里津は伊万里川河口に開けた港町で、
肥前一帯で造られた磁器が積み出され、
上方や江戸に運ばれていました。
伊万里川河口周辺。
青でぼかした辺りが伊万里津のあった場所。
「伊万里川」。
写真手前辺りが船着場跡で、
多くの磁器が積み出されたようです。… 続きを読む
米ノ津は文字通り米の集積地で、
山地からは木材や薪炭が運びこまれ、
更には豊かな海産物も獲れたようで、
積出港として商人達が集まった場所。
正式な宿場ではなかったようですが、
薩摩街道沿いにあった為に、
多くの旅籠が軒を連ねていたという。… 続きを読む
保内町川之石地区はハイカラな街とのこと。
ハイカラとは何ぞやといった感じですが、
本来は西洋風で洒落ているといった意味で、
気障で目新しい格好の人物や事柄等の事。
現在はレトロでお洒落というニュアンスで、
この言葉は使われているようです。
そういう訳で川之石地区には、
明治大正期の建物が残っている模様。
江戸時代の… 続きを読む
大洲市の中心部は内陸にありますので、
大洲藩は内陸の藩だと勘違いしがちですが、
意外にも長い海岸線を持つ藩でした。
城下を流れる肘川は瀬戸内海へと注ぎ、
その河口にある長浜が藩に整備され、
城下の外港として機能し、
御船手奉行、大目付… 続きを読む