長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
大島宰判勘場は上関宰判管轄の一部を除き、
大島郡のほぼ全域を支配していました。
「大島宰判勘場跡(久賀農協会館)」。… 続きを読む
長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
大島宰判勘場は上関宰判管轄の一部を除き、
大島郡のほぼ全域を支配していました。
「大島宰判勘場跡(久賀農協会館)」。… 続きを読む
日本中に思案橋と呼ばれる橋はありますが、
その多くは遊郭跡近くにあります。
遊郭は楽しいが散財してしまうので、
渡ろうか渡るまいか思案した橋でした。
ですが岩国市の思案橋は少し違い、
周辺に遊郭跡は存在しません。
渡ろうか渡るまいか思案した橋なのですが、
それは遊郭に行く為ではなく、
全国的に有名な錦帯橋を見る為です。
「思案橋」。… 続きを読む
元和8年(1622)頃に初代岩国領主吉川広家は、
通津に隠居して如兼と称して余生を過ごし、
茶の湯を楽しんだとされます。
如兼は[櫻井戸]と呼ばれた井戸の水と、
京都御所の[柳の水]を比較したとされ、
どちらも遜色ない水であったという。
如兼が広島藩家老… 続きを読む
元治元年7月19日の禁門の変に敗れ、
福原越後元僴は長州に帰還。
7月23日に朝廷は長州追討の勅命を発し、
これを受けて幕府は征長軍を編成します。
攻撃は諸交渉により猶予されますが、
元僴含む三家老の切腹… 続きを読む
新湊は岩国領(岩国藩)の海の玄関だった港。
初代吉川広家により今津川河口が開発され、
物揚場が築造されたのに始まり、
後に10代吉川経礼が麻里布湊を開発。
これが新湊と呼ばれるようになります。
北前船… 続きを読む
籌勝院は岩国市小瀬にある曹洞宗寺院。
湯原八幡宮の社坊だったようで、
慶長元年(1596)に吉川家家老香川春継が、
小瀬村を与えられて領主となった際に、
ここを実父香川光景の位牌所とし、
喜本院と称させたのが始まり。
春継もその子香川家景… 続きを読む