第二奇兵隊幹部立石孫一郎は、
同志約100名を率いて隊を脱走し、
慶応2年4月10日に倉敷代官所を襲撃。
同月13日には浅尾陣屋も襲撃しますが、
幕府の追討軍が派遣されると、
彼らは離散して長州藩領に逃亡しました。
多度津を経て… 続きを読む
山口県光市 立石孫一郎の碑
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第二奇兵隊幹部立石孫一郎は、
同志約100名を率いて隊を脱走し、
慶応2年4月10日に倉敷代官所を襲撃。
同月13日には浅尾陣屋も襲撃しますが、
幕府の追討軍が派遣されると、
彼らは離散して長州藩領に逃亡しました。
多度津を経て… 続きを読む
常安寺は周南市大河内の曹洞宗寺院。
大河内領主粟屋家の開基とされますが、
詳しい縁起はわかりません。
「常安寺」。
山奥にありながら立派なお寺で、
綺麗で広い墓地から檀家も多い様子。
虎ヶ岳(標高141m)の登山口でもあり、
多くの人々が訪れるようです。
粟屋家墓所は本堂裏手。
「粟屋家墓所… 続きを読む
吉川元春次男繁沢元氏は阿川毛利家の祖で、
始め仁保隆在の婿養子となり仁保家を相続。
実父元春や兄吉川元長と共に戦い、
多くの戦いで活躍しました。
後に娘たやの婿神田元忠に家督を譲り、… 続きを読む
明木宿は赤間関街道中道筋と、
萩往還の宿場町で、
双方の街道が分岐する交通の要所。
参勤道である萩往還最初の宿場であり、
藩主の休憩所の御客屋が置かれ、
後にこれが御茶屋に昇格しています。
「御国廻御行程記 明木」。
明木上市/下市周辺。緑の線が萩往還で、… 続きを読む
萩市街より国道191号線を北へ向かい、
約10km程進んだ大井浦という場所に、
吉見正頼親子の墓があります。
吉見家は津和野の国人領主で、
後の大野毛利家に連なる系譜。
正頼は毛利元就に従って家臣となり、
阿武郡… 続きを読む
楢崎弥八郎は甲子殉難十一烈士のひとり。
東光寺に彼らの墓がありますが、
遺体は善福寺に埋葬されたようです。
「楢崎家先祖合葬墓」。
大組楢崎家の合葬墓。
弥八郎の楢崎家は大組士でしたが、
同じく大組士の楢崎頼三とは別家。
※白虎隊士飯沼定吉… 続きを読む
善福寺にある内山太郎右衛門の墓。
「内山暦代正統中墓(右)」、
「内山暦代正統中室墓(左)」。
内山家歴代当主の墓とその室の墓。
内山家は無給通士の家柄で、
太郎右衛門は小野家からの養子という。
この小野家はよくわかりませんが、
それ程高い家柄ではないでしょう。
高杉晋作… 続きを読む