禁門の変の前夜、在京の加賀藩世嗣前田慶寧は、
家臣らを集めて今後の方針を議論しました。
激論の末に3つの意見に別れ、
1つ目は、尊攘派による長州藩同調論。
2つ目は、佐幕派による長州藩排除論。
3つ目は、中立を保って自立割拠論。
最終的には「御周旋は充分行届あれば、
自今御守衛を専一するを可とせり」
という年寄奥村栄通の意見が採用されて、
翌朝未明に慶寧は宮中警護… 続きを読む
滋賀県高島市 正行院/松平大弐灰塚
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禁門の変の前夜、在京の加賀藩世嗣前田慶寧は、
家臣らを集めて今後の方針を議論しました。
激論の末に3つの意見に別れ、
1つ目は、尊攘派による長州藩同調論。
2つ目は、佐幕派による長州藩排除論。
3つ目は、中立を保って自立割拠論。
最終的には「御周旋は充分行届あれば、
自今御守衛を専一するを可とせり」
という年寄奥村栄通の意見が採用されて、
翌朝未明に慶寧は宮中警護… 続きを読む
JR近江高島駅より圓光寺へ向かう途中、
建築会社の木材倉庫があり、
その傍らに石標が建てられていました。
「藩校修身堂跡」。
修身堂は8代藩主分部光賓が創設し、
儒臣中村鸞渓が文芸奉行として教育にあたり、
子弟は8歳で入学が義務付けられました。
儒学の他に… 続きを読む
大溝藩分部家は元々伊勢の国人で、
北伊勢に勢力を伸ばす長野家の一族でした。
分部光嘉は織田信長の伊勢侵攻に際し、
内通して長野家の家督を織田信包に継がせ、
※信包は信長の弟。
信包配下として伊勢上野城を与えられます。… 続きを読む
井伊家は井伊谷の龍潭寺を菩提寺としていましたが、
関ヶ原の戦いの後に井伊直政が佐和山に転封された為、
龍潭寺の五世昊天宗建禅師を招いて分寺し、
佐和山山麓に同名の龍潭寺を創建しています。
「龍潭寺」。
龍潭寺は… 続きを読む
譜代大名筆頭の井伊家の墓所は、
世田谷の豪徳寺と東近江市の永源寺、
そして今回訪問した清凉寺にあります。
「清涼寺」。
清凉寺は初代藩主井伊直政の墓所として、
次男で2代の井伊直孝… 続きを読む
彦根藩11代藩主井伊直中は、
腰元若竹が不義の子を宿した為、
これを誅しましたが、
後に不義の相手が嫡嗣井伊直清と発覚。
自らの手で初孫を殺した事を悔い、
若竹と初孫の為に天寧寺を創建しました。
「… 続きを読む
大津は平安時代より東国から京への入口で、
延暦寺、園城寺、石山寺等の大寺院もあり、
人や物の大いに行きかう港町でした。
戦国時代には織田信長が比叡山焼討を行い、
明智光秀… 続きを読む