五卿」タグアーカイブ

下関市長府 功山寺(泉十郎(野々村勘九郎)墓所)

長府藩の尊攘派の首領格といえば泉十郎
長府藩士荻野十郎左衛門の次男として生まれ、
十一歳で同藩士野々村合左衛門次晋の養子となります。
※野々村家は130石馬廻格。

家督相続の後、文久3年には藩奉行職を務めながら、
青年藩士らを集めて精兵隊を組織。
※福原和勝や三吉慎蔵も参加。
元治元年11月17日に五卿続きを読む

福岡県宗像市 五卿西遷之遺跡

長州より海を越えて九州に入った三条実美五卿は、
赤間宿の御茶屋(本陣)に25日間滞在しています。

赤間宿では福岡藩家老加藤司書が出迎えたのですが、
加藤は帯刀し、御茶屋には竹矢来が組まれていました。
※囚人が逃げないようにする柵。
貴人にとって礼節を欠いた行為に五卿らは憤慨し、
薩摩藩に不満の手紙を出します。
これを読んだ… 続きを読む

福岡県北九州市黒崎 五卿上陸地

第一次長州征伐の降伏条件のひとつ「五卿の領外移転」は、
月形洗蔵筑前勤王党の周旋によって大宰府移転が決まり、
実行に移されました。

高杉晋作のクーデターにより、内訌状態の元治2年1月14日。
五卿は馬関を出航し、途中彦島の福浦湾で夜泊。
翌日に黒崎湊に上陸し、そこから陸路で大宰府を目指しました。

晋作は五卿の長州慰留を望んでいましたが、… 続きを読む

福岡県筑紫野市 五卿の歌碑

第一次長州征伐の降伏条件は、
三家老四参謀の処罰、毛利藩主父子の謝罪文提出、
五卿の藩外移居山口城の取り壊しなどでした。
五卿の受け入れ先は、福岡藩領の大宰府と決まり、
元治2年2月13日に宰府延寿王院に到着します。

五卿の大宰府での生活は、意外と自由なものでした。
もちろん勤皇の志士達にも会えましたし、… 続きを読む

高杉晋作ウォーク(長府コース)②

高杉晋作ウォーク(長府コース)のつづき。
/②

功山寺入り口より。

総門の隣に「尊攘堂」と書かれた石標があるのですが、
先の大戦後、進駐軍(下関はニュージーランド軍だったようです)に遠慮して、
裏返しにしていたんだそうです。
面白い話ですよね。たぶんニュージーランド人には読めないと思います。


新しくなった「山門」をくぐります。


国宝の「仏殿」。山口県には国宝建築物が3つあり、… 続きを読む