[山口県下関市]」カテゴリーアーカイブ

下関市阿弥陀寺町 朝鮮通信使上陸淹留之地

朝鮮通信使室町江戸時代にかけて、
朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。
豊臣秀吉による朝鮮出兵により、
朝鮮との国交は断絶していましたが、
幕府は朝鮮との国交回復を図り、
紆余曲折を経て通信使が再開されます。
慶長12年(1607)に第1回が始まると、
以後12回の通信使が派遣され、
※最後の12回は対馬止まり。
将軍襲封等の祝賀を行いました。

文化8年(1811)の最後の通信使は、… 続きを読む

下関市唐戸町 堂崎の渡し場跡

現在の亀山八幡宮大鳥居前には、
国道9号線が通っていますが、
往時はすぐ海岸線でした。
亀山八幡宮には海参道が設けられ、
巨大な大鳥居も建立されていますが、
そこには堂崎の渡し場があって、
九州への玄関口となっていたとのこと。
但し渡し場は大鳥居前ではなく、
大鳥居より少し東側だったようで、… 続きを読む

下関市秋根上町 曲水の宴の碑

綾羅木川の支流砂子多川の畔に、
曲水の宴の碑という碑が建っています。
この曲水とは[ごくすい]と読むようで、
曲水の宴奈良~平安時代に、
宮中で催された歌会だったようで、
水の流れのある庭園等で、
その流れの畔に宴の出席者が座り、
上流の者が上の句を作って杯にのせて流し、
下流の者が盃が流れてくる前に、… 続きを読む

下関市長府 法華寺/大庭伝七墓所

法華寺は長府金屋町にある法華宗寺院。
その起源は国分尼寺であるとされ、
元和元年(1615)に現在地に移転しています。
初代藩主毛利秀元の側室正福院の両親が、
この寺に篤く帰依していた事から、
毛利家より寺田を賜り諦玄寺と称しました。
※明治3年に法華寺と改称。


本堂続きを読む

下関市長府 大庭伝七宅跡

大庭家長府大年寄を務めた家柄で、
幕末の当主大庭伝七白石正一郎の実弟。
正一郎とは20歳も離れた末弟であり、
血気盛んな若者であったようで、
尊皇攘夷運動に邁進していました。


大庭傳七・柯公旧宅跡」。
大年寄大庭家の屋敷があった場所。
現在は民家となっており、… 続きを読む

下関市細江町 廣江殿峯墓所

幕末より少し前の文化文政期
来関した文化人の多くと交わり、
自宅を文化交流拠点とした人物がいました。
彼の名は廣江殿峯
特に文人頼山陽、南画家田能村竹田とは、
深く交流を続けたとされています。


廣江殿峯墓碑」標柱。… 続きを読む

下関市吉田 東行庵/脱走隊士の墓

奇兵隊顕彰墓地にある脱走隊士の墓碑。
慶応2年4月17日。
倉敷浅尾騒動に加わろうと陣営を脱走し、
捕らえられて翌日切腹させられた隊士ら。


波多野十吉墓(左)」、
山本龍之進墓(左2)」、
有田恒太郎墓(右)」。
※右から2番目は不明。
倉敷浅尾騒動は第二奇兵隊脱走隊士らが、
倉敷代官所続きを読む