酢の醸造を生業とした奈良屋は、
赤間関西ノ端(田中川の東側)にありました。
その店の当主入江和作は大年寄も務め、
赤間関に来訪する志士らを支援し、
特に高杉晋作を金銭面で支えています。
功山寺挙兵の際には軍資金を提供し、
四国亡命の際も逃亡資金を用意しました。
「入江和作邸… 続きを読む
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下関市貴船町 黒石堂病院創立碑
貴船町のかなり奥まった場所に、
黒石堂病院創立碑なる記念碑があります。
「黒石堂病院創立碑(左)」、
「山本兵助顕彰碑(右)」。
黒石堂病院の創立碑と山本兵助の顕彰碑。
山本兵助は下松出身の幕末の医師で、
広瀬淡窓や村上仏山の門下だったらしい。
黒石堂病院の創立者山本鳳弼… 続きを読む
下関市阿弥陀寺町 与次兵衛ヶ瀬の碑
阿弥陀寺町の姉妹都市ひろばという場所に、
与次兵衛ヶ瀬の碑があります。
「与次兵衛ヶ瀬の碑」。
関門海峡は狭い場所で約650m程、
そこに1日約510隻の船が行き交い、
多くの船舶が通行していますが、
やはり現在も海運の難所でとのこと。
現在は浅瀬の除去、信号やブイの設置、
浚渫工事等で安全が保たれていますが、
昔はもっと危険な海峡でした。
その最大の難所が与次兵衛ヶ瀬… 続きを読む
下関市阿弥陀寺町 朝鮮通信使上陸淹留之地
朝鮮通信使は室町~江戸時代にかけて、
朝鮮から日本へ派遣された外交使節団。
豊臣秀吉による朝鮮出兵により、
朝鮮との国交は断絶していましたが、
幕府は朝鮮との国交回復を図り、
紆余曲折を経て通信使が再開されます。
慶長12年(1607)に第1回が始まると、
以後は12回の通信使が派遣され、
※最後の12回は対馬止まり。
将軍襲封等の祝賀を行いました。
文化8年(1811)の最後の通信使は、… 続きを読む
下関市唐戸町 堂崎の渡し場跡
現在の亀山八幡宮の大鳥居前には、
国道9号線が通っていますが、
往時はすぐ海岸線でした。
亀山八幡宮には海参道が設けられ、
巨大な大鳥居も建立されていますが、
そこには堂崎の渡し場があって、
九州への玄関口となっていたとのこと。
但し渡し場は大鳥居前ではなく、
大鳥居より少し東側だったようで、… 続きを読む