長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、裁判等が、
行われています。
大田は中世末期以来の大市であった為、
美祢郡を司る宰判勘場が設置されました。
「美祢市立大田小学校(美祢宰判勘場跡)」。
勘場跡は現在の美祢市立大田小学校… 続きを読む
「美祢市」カテゴリーアーカイブ
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山口県美祢市 絵堂宿跡
絵堂宿は赤間関街道中道筋の市宿。
萩から南へ五里のところにあり、
小さな集落ながら交通の要地でした。
美祢市美東町江堂周辺。緑の線が街道筋。
青でぼかした辺りが絵堂宿跡。
「絵堂宿跡」。
地蔵菩薩を安置した絵馬堂あった為、
これに由来して絵堂と呼ばれたとされ、
北西にある赤村の枝郷であったようです。… 続きを読む
山口美祢市 八幡磨能峰宮
美祢市の中央部北側。
下領という場所にある八幡磨能峰宮に、
池田屋事件の殉難者広岡波秀の碑があります。
「八幡磨能峰宮」。
通称は下領八幡宮。
社伝によると創建は孝霊天皇の時代とされ、
紀元前200年代という事になります。
当初は天照大神… 続きを読む
山口県美祢市 四郎ヶ原宿跡
萩と下関を結ぶ赤間関街道。
北浦道筋、北道筋、中道筋の3ルート中で、
最も距離が短いのが中道筋でした。
その中間地点が四郎ヶ原。
何らかのいわくがありそうな名称ですが、
その由来は、… 続きを読む
山口県美祢市 楢崎頼三屋敷跡
飯盛山で自刃した白虎隊の生き残り飯沼貞吉。
燃える城下を落城と勘違いして、
少年達は次々と自刃し、
貞吉も咽喉に脇差を突き立てたが死ねず、
それを会津藩士の妻が見つけて介抱し、
貞吉は一命を取り留めます。
後に貞吉は電信技士となって各地に赴任し、
電信電話の発展に貢献しました。
この飯沼貞吉が会津戦争終結後、
敵であった… 続きを読む
山口県美祢市 来嶋又兵衛関連史跡
美祢市南端の厚保町は栗の産地として有名で、
栗の木に適した土壌を持ち、
江戸時代後期より栽培されていました。
その大きくて甘い厚保栗は、
現在も盛んに栽培されています。
その厚保にある来島又兵衛関連の史跡。
又兵衛は無給通士喜多村政倫の次男に生まれ、
初名は亀之進といいました。… 続きを読む