第一次長州征伐で長州藩は窮地となり、
これによって俗論党政権が誕生すると、
周布政之助は罷免されてしまいます。
その頃周布は吉富家に滞在していましたが、
その意気消沈ぶりはすさまじく、
何度も自裁を口にしていたという。
吉富家の主人吉富藤兵衛(簡一)は、
周布が早まらないように注意し、
刃物を隠したり監視したりしていましたが、
周布は隠し持った短刀で自刃。… 続きを読む
「長州藩」タグアーカイブ
山口県山口市 吉富簡一旧宅
吉富簡一は矢原村の大庄屋でしたが、
幼馴染の井上聞多の影響により、
攘夷戦の費用を献金した他、
正義派の支援を積極的に行っています。
高杉晋作が挙兵して内訌戦が始まると、
軍資金を供出した他に自ら鴻城軍を組織。… 続きを読む
山口県美祢市 丸山招魂場
丸山招魂場は美祢市伊佐町の丸山にあり、
伊佐周辺出身の戦死者を招魂しています。
「丸山招魂場」。
丸山招魂場の設立時期は不明ながら、
禁門の変から大東亜戦争まで、
伊佐周辺の戦死者の招魂墓が並びます。
その数は正確に数えていませんが、
ざっと見て200柱以上はある模様。
半数は大東亜戦争の戦死者でした。
幕末~西南戦争… 続きを読む
山口県美祢市 志道家墓所
志道家は安芸毛利家の庶流で、
安芸国志道を領した為に志道姓を称し、
2代当主志道広良は毛利家執政として、
10代毛利興元から12代毛利元就まで、
家臣団の中心的人物として活躍。… 続きを読む
山口県柳井市 岩休寺跡/浦家墓所
岩休寺は阿月にあった曹洞宗の寺院で、
その創建は詳しくわかりませんが、
元々は心岳寺というお寺であったという。
寄組浦家が阿月を領する事となった際、
その菩提寺となって岩休寺に改称。
領主家の庇護を受けて隆盛しましたが、
明治維新後は庇護を失った事と、
檀家が少なかった事で廃寺となり、
本堂は令和3年まで現存していましたが、… 続きを読む
山口県熊毛郡 上関宰判勘場跡
長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、裁判等が、
行われています。
上関宰判は慶安3年(1650年)設置され、
初め長島の四代に置かれましたが、
正保期(1644~1648)に上関… 続きを読む
山口県熊毛郡 富永有隣墓所
富永有隣は富永七郎右衛門の長男に生まれ、
幼少時に天然痘で右目を失明したという。
藩校明倫館に学んた後に藩に出仕し、
小姓役から配膳役へと進みますが、
偏屈な性格が災いして見島へ配流。… 続きを読む