本博多町に設置されていた長崎奉行所は、
寛文3年(1663)の大火で焼失してしまった為、
東役所、西役所の2つに分けられました。
その後、東役所は立山に移転し、
本博多町には西役所のみが残され、
立山役所と西役所で奉行所が運営されます。
「長崎奉行所立山役所跡」。… 続きを読む
長崎県長崎市 長崎奉行所立山役所跡
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本博多町に設置されていた長崎奉行所は、
寛文3年(1663)の大火で焼失してしまった為、
東役所、西役所の2つに分けられました。
その後、東役所は立山に移転し、
本博多町には西役所のみが残され、
立山役所と西役所で奉行所が運営されます。
「長崎奉行所立山役所跡」。… 続きを読む
平戸藩3代藩主松浦隆信は、
2代松浦久信と正室そのの長男に生まれ、
父が早逝した為に12歳で跡を継ぎます。
母のそのは熱心なキリシタンで、
隆信は幼少期に洗礼を受けていましたが、
幕府による禁教令で棄教し、
領内でキリシタンの弾圧を行いました。… 続きを読む
雄香寺は平戸藩5代藩主松浦棟が、
的山大島の古寺江月庵を移して創建し、
5代以降の歴代藩主の菩提寺となった寺院。
「雄香寺」。
前回の訪問時は裏手の墓地側から、
松浦家墓所と開山堂のみを訪問。
今回はちゃんと正門から境内へ。… 続きを読む
現在の最教寺のある場所は、
空海が唐より帰国した際に、
護摩を炊いたとされる場所。
この事から平戸藩初代藩主松浦鎮信は、
真言宗寺院の建設を思い立ちますが、
当時そこには曹洞宗寺院が建っていました。
鎮信は寺の住職に移転を要求しますが、… 続きを読む
、
松浦家の21代当主であった松浦義は、
室町幕府6代将軍足利利教により、
肥前守に任じられていましたが、
義教は嘉吉の乱で赤松満祐に殺されます。
義は義教の追悼の為に出家して融義と称し、
勝尾岳中腹に… 続きを読む