奥の院墓地にある岩国吉川家の墓所。
毛利元就の次男吉川元春は毛利家覇業の為、
三男小早川隆景と共に「毛利両川」として活躍。
主に山陰地方の抑えを担当していました。
特に軍事面では卓越した能力を発揮し、
元春は生涯で76の戦を行ってますが、
一度も敗戦が無かったとされます。
毛利家が… 続きを読む
高野山奥の院墓地/岩国吉川家墓所
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奥の院墓地にある岩国吉川家の墓所。
毛利元就の次男吉川元春は毛利家覇業の為、
三男小早川隆景と共に「毛利両川」として活躍。
主に山陰地方の抑えを担当していました。
特に軍事面では卓越した能力を発揮し、
元春は生涯で76の戦を行ってますが、
一度も敗戦が無かったとされます。
毛利家が… 続きを読む
日本中に思案橋と呼ばれる橋はありますが、
その多くは遊郭跡近くにあります。
遊郭は楽しいが散財してしまうので、
渡ろうか渡るまいか思案した橋でした。
ですが岩国市の思案橋は少し違い、
周辺に遊郭跡は存在しません。
渡ろうか渡るまいか思案した橋なのですが、
それは遊郭に行く為ではなく、
全国的に有名な錦帯橋を見る為です。
「思案橋」。… 続きを読む
元和8年(1622)頃に初代岩国領主吉川広家は、
通津に隠居して如兼と称して余生を過ごし、
茶の湯を楽しんだとされます。
如兼は[櫻井戸]と呼ばれた井戸の水と、
京都御所の[柳の水]を比較したとされ、
どちらも遜色ない水であったという。
如兼が広島藩家老… 続きを読む
元治元年7月19日の禁門の変に敗れ、
福原越後元僴は長州に帰還。
7月23日に朝廷は長州追討の勅命を発し、
これを受けて幕府は征長軍を編成します。
攻撃は諸交渉により猶予されますが、
元僴含む三家老の切腹… 続きを読む
新湊は岩国領(岩国藩)の海の玄関だった港。
初代吉川広家により今津川河口が開発され、
物揚場が築造されたのに始まり、
後に10代吉川経礼が麻里布湊を開発。
これが新湊と呼ばれるようになります。
北前船… 続きを読む
籌勝院は岩国市小瀬にある曹洞宗寺院。
湯原八幡宮の社坊だったようで、
慶長元年(1596)に吉川家家老香川春継が、
小瀬村を与えられて領主となった際に、
ここを実父香川光景の位牌所とし、
喜本院と称させたのが始まり。
春継もその子香川家景… 続きを読む